すでに書いたかもしれませんが、イギリスの大学(特に人文・社会科学系の学部)では毎週、山ほどの学術論文・書籍・法律を読まされます。
この夏に日本に帰って日本の大学生と話していて、イギリスの大学生が3年間でとれる科目数はかなり少ないということに気づいたのですが、それ自体が全く異なる授業の進め方に基づくもので、特にその原因になっているのがリーディングの量の多さだと思います。
一見すると、リーディングは生徒の負担ばかりが増えて、時間を食う非効率的な学び方かも知れません。しかし、僕は今苦しくても、これだけのリーディングを大学生という一番大切な時期に出来るのは非常に重要だと感じています。
例えば、国際法の父といわれるグロティウスの「自由海論」を大学2年生で全部読まされる大学が日本であるでしょうか。また大学1年生でマルクスの「資本論」を教科書やゼミのプリント以外で原文を読まされる環境が日本の大学にあるでしょうか。
確かにこれらの古典的名著は非常に何回で教授の導きなしではなかなか理解できないものです。その一方で、それらが何世紀を経ても名著なのはそれだけ普遍的な価値と重要性があるからであり、自分の思想が形成されていく大学生の時期に幅広くそうした文章に触れられるというのは有り難いことだと思います。
現代では簡単にいろんな情報の要約が手に入り、古典的名著に関しても多くの解説本が出ています。しかし、大学のゼミでディスカッションをすれば同じチャプターを読んでも多種多様な解釈があることが分かるように、自分自身の解釈を持つことはやはりたいせつなのではないでしょうか。
確かにリーディングにおわれるのはいつも苦しいものですが、その知的格闘の先には真の意味での知的充足感が待っている気がします。
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